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Tuesday, June 9, 2020

大化の改新ゆかりの広場ほぼ断定|NHK 関西のニュース - nhk.or.jp

大化の改新を行った中大兄皇子と、中臣鎌足は、神木が立つ「槻の樹の広場」と呼ばれる場所で出会ったと伝えられています。
この神木があった可能性を示す遺構が、奈良県明日香村の遺跡で初めて見つかり、村の教育委員会は、この遺跡を大化の改新ゆかりの広場の跡とほぼ断定しました。

奈良県明日香村の「飛鳥寺西方遺跡」は、大化の改新を行った中大兄皇子と中臣鎌足が出会った場所として、日本書紀に記されている「槻の樹の広場」ではないかとされています。
「槻の樹」は、いまでいう「ケヤキの木」で、古代には神木とされていました。
村の教育委員会がこのほどまとめた発掘調査の報告書によりますと、遺跡の広さは少なくとも、南北が200メートル、東西が140メートルで、一面に石が敷かれていました。
この場所では井戸の跡が見つかったほか、近くの飛鳥寺からみてちょうど西の方角には6メートルから7メートル四方にわたって石敷きがない場所が残され、この場所に木が生えていた可能性があるということです。
古代、神木の近くには井戸があったとされることや、日本書紀には「槻の樹」が飛鳥寺の西に位置しているとの記述があることから村の教育委員会は、石敷きがないこの場所に広場の名前の由来となった神木の「槻の樹」があった可能性が示されたとしています。
こうした遺構が見つかったのは初めてで、村の教育委員会は「飛鳥寺西方遺跡」を「槻の樹の広場」の跡とほぼ断定しました。

【「槻の樹の広場」とは】。
「槻の樹の広場」は飛鳥時代、重要な儀式や宴が行われた場所として古代の歴史書、「日本書紀」にたびたび登場します。
中でも大化の改新の立て役者、中大兄皇子と中臣鎌足が出会った場所として有名で、奈良県桜井市の談山神社に残されている「多武峯縁起絵巻」には広場で開かれた蹴まりの会で、中大兄皇子の靴が脱げ、それを中臣鎌足が槻の樹の近くで手渡す様子が描かれています。
その後、2人は親しくなって、大化の改新を行ったとされ、のちに日本の歴史を変えることになる重要な場面です。

【専門家“課題として検討も”】。
飛鳥時代に詳しい東京学芸大学の木下正史名誉教授は、「広い範囲で石敷きが整備されている点からしても、この遺跡が『槻の樹の広場』であることは間違いない。ただ、槻の樹の候補地としている場所には、木の根などの痕跡がないほか、井戸が作られた時期が正確にわかってないので、今後の課題として検討するべきだ」と話しています。

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