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Wednesday, April 22, 2020

[対談]「悪さができない少年」が「好き」を仕事に変えるまで(日経ビジネス) - Yahoo!ニュース

 2度の震災と、オリンピック招致がそれぞれキャリアの転換点になったという、書家にしてプレゼンテーションの名手、前田鎌利さん。少し変わった生い立ちに端を発する両親への思い、通信業界への思い、そして書に傾ける情熱。それらを折々の体験の中で昇華し、人生を切り開いてきた。 もしかしたら私たちも、新型コロナウイルスに翻弄される今を、自分を見つめ直し、何かを変えるきっかけにできるのかもしれない。そんな気持ちにさせてくれるインタビューの後編。 インタビュアーは、作家の井上篤夫さん。井上さんの近著『孫正義 事業家の精神』刊行を記念した対談企画。(前編は下記関連記事『[対談]孫正義のプレゼン、極意は「一座建立」にあり』)

【関連画像】井上さんの著書の表紙に、鎌利さんが寄せた揮毫を眺めながら語り合う。孫社長に3案を提示し、選んだ1案は「孫さんのシャープさと柔らかさを表現した」(鎌利さん)という向かって左側の作品(写真:菊池一郎)

井上篤夫(以下、井上):鎌利さんのキャリアの分岐点は、まず1995年の阪神大震災。いわゆる「1・17」ですね。

前田鎌利(以下、鎌利):はい。福井県出身の僕は当時、東京にいて、教職を目指す大学生でした。書道の先生になりたいと思っていました。

 地震の直後から、関西方面にいる親戚や友人、知人と連絡が取れなくなりました。当時、スマホはもちろんありませんでしたし、通話用の携帯電話こそ存在しましたが、まだまだ全然、普及していませんでした。地震で固定電話の回線がやられてしまうと、大事な人にメッセージを残したり、自分の居場所を伝えたりする方法はほとんどない。

 そんな状況で思ったのです。携帯電話のようなデバイスやインフラがしっかりあったら、あの人たちは、最後の最後、自分の大事な人の声を聞けたんじゃないかと。せめて最後の最後に、声を聞きたかったんじゃないかと。

 そんな理由で、移動体通信の業界に興味を持ちました。

―鎌利さんは、随分と真面目な青年だったのですね。

鎌利:そうですか。まあ、少なくともヤンキーとか不良だったことは一度もないですね(笑)。

鎌利:僕は2人兄弟なんですが、僕が1歳、弟が生まれて数カ月というときに父が亡くなり、父の両親に引き取られて育ちました。

 そうやって僕の「両親」となった祖父母は大正生まれで、大変な苦労人でした。昔のことですから、誰もが十分に教育を受けられたわけでなく、両親は、読み書きがそれほどできなかった。そうなるとまあ、人にだまされるんです。契約書に書いてあることなんて何が何やらよく分からなくて、とりあえず名前を書く、みたいなことがあって、それまでの人生で大変、苦労していた。

 だからそういう苦労をさせたくない、という思いで、僕を引き取った後、5歳のときから、書を習わせたんだそうです。読み書きができれば、自分たちのような苦労をしないで済むと思って。

 そんな事情を両親から聞いたのが、ちょうど小学6年生のときで、今でもよく覚えています。うちの息子が、昨年、6年生だったんですけれど、彼の姿を見ながら、「ああ、このくらいのときに、あの話を聞いたなあ」などと、感慨にふけったりするわけです。

 そんな両親のことを思うと、悪いことなんてもう、とてもとても(笑)。到底できませんでした。普通ならば、やんちゃな若い時期でも。

 ともあれ、小学校6年生で、父母の思いを聞いたあのときから、僕の書に対する向き合い方が、変化しました。それまでは、ただ一生懸命、字を書いて、褒められたり、賞をもらったりすればうれしかったのが、「何のために僕は書を書くのだろう」「どうして僕は書き続けるのだろう」などと考えるようになりました。もちろん、嫌いじゃないから書き続けているんですが、書き続けるにしても、何かが変わった。

●「つながるdocomo」より「つながらないJ-フォン」

―キャリアの話に戻ると、最初に学校の先生を目指したのは、なぜでしょうか。

鎌利:田舎で「両親を養いたい」と言うと、「それなら学校の先生か公務員だな」と。みんながみんな、それしか言わない(笑)。

 自分としても、学校の先生になるのは、嫌ではなかったから、それならばなろうか、と。何の先生がいいかと考えると、好きだから書道の先生。大学は書道科に進みました(東京学芸大学教育学部書道教員養成課程を卒業)。

井上:それが、阪神大震災を機に、通信業界に目を向ける。

鎌利:一度は、学校の先生として就職しようとしたんです。大学を出てから、地元に戻ってバイトをしながら、求人を探して。けれど、書道の先生の空きって、なかなか出なくて。ある意味、非常に狭き門なんです。一方で、通信業界への興味はどこかで引っかかっていて、1年ほどもんもんとした後、一念発起、名古屋に出て光通信に就職しました。

 光通信の門をたたいたのは、携帯電話を「販売」する会社だったからです。震災で僕が感じたのは、「大事な人とつながれないこの状況をどうにかしたい」。その前提で、1990年代後半当時の通信業界の状況を概観すると、「つなげる道具(携帯電話)をもっと普及させるべきだ」と考えたのです。

 やがて、携帯電話は1人1台持つのが当たり前になりました。すると今度は「道具はあってもつながらない」という問題が浮上してきました。

 そこで、2000年に「つながらない通信会社」として有名だったJ-フォンに転職しました。あのころ、赤いロゴの会社(NTTドコモ)は、どこに行ってもつながるのに、青いロゴのJ-フォンは一向につながらなかった。そんな「青いロゴの会社に行くことが、僕の人生において重要で、赤いロゴの会社じゃ絶対ダメなんです!」と、面接でも力説しました。僕なりに選んで入ったんです。

―やっぱり真面目なんですね。

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